卓話
2024年10月
卓話『合言葉は「人文知」-日本が再び輝くために-』2024年10月21日
大原美術館 名誉館長 大原 謙一郎様
わたしは神戸生まれ京都育ちの倉敷人です。
世界中どの国を見ても、一流の地方がある国が一流の国です。イタリアのローマは素晴らしい首都ですが、ファッションはミラノ、文化はフィレンツェと、各地に一流の地方があります。倉敷も日本各地に数多くある一流の地方のトップランナーでありたいと思っています。また日本の東京は紛れもなく世界一流の首都ですが、それだけではなく全国各地に世界一流の地方がある国になってほしいと考えています。
倉敷川は瀬戸内海に通じる運河で、近くにある倉庫は現在倉敷考古館になっており、このような倉庫が運河の周りに並び、景観を作っています。その中にある大原美術館の創設者はわたしの祖父である大原孫三郎と絵描きの児島虎次郎です。児島虎次郎はベルギーで、大原美術館の象徴のひとつである『和服を着たベルギーの少女』を描いています。日本と世界がこんなふうに繋がったらいいなという児島の思いが込められているのではないかと思います。そしてそれは大原美術館の思いでもあります。
日本の美術は額縁の中だけが全てではなく、外の空気と繋がっている、自然と通い合う美しさがあります。児島がモネから直接用意してもらった『睡蓮』は、当たる光が変わっていくにつれて本当に美しく表情を変えていきました。モネは日本美術に対する造詣が非常に深かった人です。そういう意味では、モネは日本の心と世界の美術を繋ぐようなところがあったのかもしれません。
神戸は町衆の町、そして京都もまた町衆の町です。明治時代、文部科学省から小学校令が出された時、京都にはすでに町衆によって作られた番組小学校が64校ありました。今でもいくつかは文化センターや高級ホテルとして現存しており、言い換えれば、町衆がそれだけの建物を作っていたということです。また鴨川の横を流れている運河、高瀬川を作ったのも町衆です。鷹峰の芸術家村を作ったのも、刀剣の鑑定を職業にしていた本阿弥光悦という商人でした。商人は目利きでなければ務まらず、自分の生業を成功させるために文化を身に付けていなければいけませんでした。
商人は信用がなければ商売はできません。お武家様が家紋の誉れを大事にするように、わたしたち商人はのれんの信用を大事にしてきました。新渡戸稲造の『武士道』の目次には、義・勇・仁・礼・誠、まさに商人の心得と同じことが書かれています。武士道と同じように商人の道もまた、今の日本を作ってきたと言えるのではないかと思います。
今日本でなにが大事なのかを考えると、技術はもちろん大事です。教育ももちろん大事です。しかし、人間に対する理解、世界の動きに対する理解、人文的な理解を深めることをしなければ日本の国は危ういと感じることが多くあります。
わたしたちの時代は、試験の点数さえ取れればそこそこの大学に入ることができました。しかし今の大学受験は高校の時にどれだけ幅広い体験をしたかということにひとつの重点を置いていますので、親が裕福でない人は幅広い体験ができず、塾にも行けず、偏差値の高い大学に入れないという別の問題が生じています。また大学教育も変えなくてはいけない時期であると感じます。大学院はもっともっと変えなくてはいけません。過去の文部科学省の通達について、地方大学には文科系、特に人文系はいらないという意味だと受け取ってしまった人も多くいたと思います。しかし経団連は、「世の中は技術立国だから、技術者だけ教育をしてパテントをたくさん取らせればいいと思っている人がいるが、わたしたち経済人は、本当に人文的な考えがなければ、あるいはそういう意識がなければ世界と戦えないということは身に染みている。」と、すぐさま声明を出しました。また、人文系こそもっともっと教育しなければいけないとも言いました。しかし現実問題として、予算は減らされる、あるいは定員が減らされる。そこで経団連の会長さんに相談に行き、人文系の知恵を盛り立てるような仕組みを社会の中に作っていかなければならないということで2019年に人文知応援フォーラムを発足しました。
「人文知」は、文化を愛で、芸術に親しみ、人文学を身につけることを通じて
人の心の中に生まれてくるしなやかで強靭な「知の力」です
人文知応援フォーラムは、これからの日本で
文化、芸術、人文学の研究が一層進展するよう微力を尽くすとともに
「人文知」が日本の社会の中で広く生かされるように応援活動を展開します
これは人文知の設立宣言です。今2つの応援活動を始めていて、ひとつはオピニオン部会といって評価のしかたなどについて声を上げていこうというもの、もうひとつは若者たちに人文知を身に付けてもらうための研修です。人間文化研究機構の代表的な研究所である大阪の国立民族学博物館、千葉県の国立歴史民俗博物館など、素晴らしい博物館(トル・研究機関 研究機関を舞台に研修の計画を立てています。
人文知とはなにかということを議論したらきりがありませんが、人文知は人間の本性とその社会についての広く深い知恵だとわたしたちは考えています。それは物事の本質に迫り、人の動きと世の流れを読み解く鍵になります。なんとか変えていこうと思ったら、わたしたち自身が賢くなるしかないのです。それはどうやって育つか。文化、芸術、人文学の素養、あるいは広い体験と深い人生経験です。大学に行っていなくてもいいのです。多くのことに共感する、多くのことに感動する、多少は批判も反発もする。そうした囚われない自由な心と深く静かなる思索で培ったものは、一人ひとりのために働くし、みんなのためにも働きます。アインシュタインは子どもの頃は成績が良くなかったと言われています。しかしバイオリンが大好きで音楽を勉強していました。また湯川博士は和歌を嗜まれていました。アインシュタインの相対性理論の背景には音楽が流れ、湯川博士の中間子理論の背景には和歌が流れています。いざという時に人文知が後押しをしてくれるということは、わたしたちが身をもって経験していることなのです。
民族学博物館の生みの親である梅棹忠夫さんは「思想は使うべきものである。論じるためだけにあるものではない」と仰っています。また中国の易経には「天文を観てもって時変を察し 人文を観てもって天下を化成す」という指針があります。つまり思想を使って世の中を変えていこうじゃないか、人文を観察して、物事のあり方や秩序をどう育成すべきかを考えようということです。人文知は人間と社会に対する洞察と共感を育てる知恵であり、人文知には力が漲っているのです。
倉敷は世界一流の地方を目指して頑張っています。背景には、人間に対する理解、世界に対する理解を深めていこうという望やみや思いがあります。思いを形にして日本全国に広げ、そして世界に対して誇れる風格のある国にしていけたらと思います。
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