東京六本木ロータリークラブ




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卓話『カンボジア支援活動24年を振り返って』2026年3月30日

認定NPO法人カンボジアの健康及び教育と地域を支援する会 副理事長 田口 嘉孝様

認定NPO法人カンボジアの健康及び教育と地域を支援する会 副理事長 田口 嘉孝様

SCHEC「認定NPO法人カンボジアの健康及び教育と地域を支援する会」は、井戸の掘削事業、学校建設事業、歯科診療活動の3つを大きな柱としています。

1999年、カンボジアの中でも貧しい地域であったシェムリアップ州で井戸掘削事業を開始しました。雨季があるカンボジアでは2から3メートル掘れば水は出ましたが、濁っていて飲み水には不適切だったため、深さ25メートルの手押しポンプ付の井戸を掘って綺麗な水が出るようにしました。ポンプの下にはコンクリートを貼り、寄付をしてくれた方の名前などを綴った看板を立てています。それまでのカンボジアは水がめに貯めた雨水か、地面に掘った穴に貯めた不衛生極まりない水を利用していました。水がめにボウフラがわくのは酸素があって良い水だと教えられましたが、マラリアの発生源にもなってしまうため、改めて手押しポンプ付の井戸が大事だということに気付きました。NPO法人を設立する前に82本の井戸を掘り、この4月に4000本を達成しました。現在は雨季を避けて年に2回、4月と11月にカンボジアを訪れて井戸の視察を行っています。

学校建設事業は、鉄筋コンクリート造りを基本としています。以前は壁をヤシの葉で葺いたり、老朽化した校舎の建て替えを行っていましたが、最近では増える一方の子どもに合わせて校舎を増設しています。わたしが1993年に初めてカンボジアに来た時に比べて人口が倍に増えており、ポル・ポト時代にたくさんの人が殺されたことが関係していて平均年齢は27歳、大半がまだ子どもです。昨年11月に40校目を建設しました。

歯科診療治療は11月に1回、村人たちの治療を行っています。昔は治療機材が無くて、やむなく一番痛い歯を抜歯するしか治療法がありませんでしたが、その後ポータブルユニットによって歯を保存しながらの治療ができるようになり、これまでに診療した人数は1万5000人を超えます。学校ではブラッシング指導を行い啓発に努めています。綺麗な水がなければ歯を磨く気にもならないと思いますが、最近では習慣ができ、井戸の周りに歯ブラシや歯磨き粉が置いてある光景を見かけるようになりました。

なぜカンボジアだったのでしょうか。それは1988年まで遡ります。知人にカンボジア難民キャンプの訪問に誘われ、国境地帯にある難民キャンプに支援物資を届けながら回りました。それまでまったくカンボジアに興味はありませんでしたが、以来新聞などで記事を見ると、大きく目に飛び込んでくるようになりました。自衛隊の駐屯地であったタケオを毎年訪ね、PKO隊員との間に生まれた子どもを育てる女性と知り合った時、この小さな女の子が20歳になるまでカンボジアに関わり続けるんだなと漠然と思いました。また1999年には井戸が1本200ドルで掘れるということを知り、ここでもまたなんとかしようと漠然と思いました。それが今でもカンボジアにこだわり続けるきっかけです。

大宮シティロータリーで確信犯的に井戸の話をしたところ、その場で2本掘るよと声があがり、わたしが掘ろうと思っていた2本と合わせて4本掘ったところからスタートしました。歌舞伎町で飲み歩きながら宣伝をしていたら、自分たちも掘りたいと言ってくれる方がたくさんいて、寄付が集まるようになり、NPO法人立ち上げ前に82本掘ることができました。NPO法人設立後、今まで掘った82本と同じだけの寄付がたった3日間で集まりました。さらに300万円の寄付があり、嬉しい悲鳴が出たほどでした。

カンボジアの雨季は毎日のように大粒のスコールがあるため、11月と4月に活動をしています。かつてはまったく整備されていない赤土の道路だったところが現在はアスファルトの整備が進んでいます。農村の奥地まで比較的スムーズに行くことができるようになったことに伴い、井戸を設置する場所も範囲は今も広がっています。

カンボジアの経済成長率は5%台で推移しています。都市部と農村部の格差は広がるばかりではありますが、電気はタイから輸入して行き渡るようになり、小型のソーラーパネルも見かけるようになりました。水道も都市部を中心に整備されつつあります。2023年に水道法が公布され、北九州市の水道局などの支援で成立しました。これはプノンペンの奇跡として有名で、水道整備事業に人材派遣や浄水場建設などで20年以上深く関わり、さらに北九州市の団体が2024年12月から10年間水道事業運営を行うことが決まりました。日本から20億8100万円を上限として貸し付けることも決まり、しかしこうした補助金は、都市部や広大な開発地に優先され、農村地帯に水道がひかれるのはまだまだ先のことです。故に農村地帯にポンプ付井戸はまだまだ必要とされているのです。

貧困の定義は、極度の貧困、中程度の貧困、相対的貧困の3つに分けられています。極度の貧困とは、生存に必要な最低限のものを得られない状態、長期的な餓え、医療の貧困、安全な飲料水や衛生設備の不備、子どもの教育の欠如などで、発展途上国にしかありません。中程度の貧困は、基本的な要求は満たされているものの、まったく余裕がないギリギリの状態、そして相対的貧困は一家の収入がその国の平均より低い場合で、文化的な商品や娯楽、質の良い医療や教育など、上級国民の特権から排除をされている状態です。東南アジアの中でも比較的安定した経済運営にあるカンボジアですが、都市部と農村部の格差がますます拡大する中で、今あげた3つの貧困が混在している状態だと言えるかもしれません。

カンボジアはマイナスからの出発です。まだまだ発展の道半ばだと言わざるを得ません。

ご清聴ありがとうございました。

卓話『日本の婚活の現状と地域創生について』2026年3月23日

株式会社IBJ 代表取締役社長 石坂 茂様

株式会社IBJ 代表取締役社長 石坂 茂様

株式会社IBJを起業してから今年でちょうど20周年になります。それまでの結婚相談所や情報サービスは、どちらかというと会員をとにかく増やし、結婚しないで長くいればいるほど企業が伸びるというような方程式になっていました。わが社は結婚相談所や婚活の会社としては初めて日本の人口減少と少子高齢化問題を解決するというビジョンを描いて創業した会社です。業界で初めて成婚料をきちんといただき、お客様とベクトルを合わせ、「成婚主義」という言葉を描いて、今では日本で一番の結婚数を出している会社です。年間2万組以上成婚までサポートを行い、年間の成婚24~25組に1組がIBJカップルというところまできました。人口が減り結婚も減っている中で、JASDAQに上場した2012年から、IBJは伸びないと言われ続けてきましたが、それに反してずっと伸び続けており、それだけニーズがあるということだと思います。

婚姻組数と出生数は20年前と比べて30%減少しています。都市部を中心に多様なパートナーシップが受容されるようになり、結婚を選ばないカップルも増えてきていますが、実際には8割以上の方はいずれ結婚するつもりという考えがあります。しかし50年前とは違い、言葉を選ばずに言うと、自分の人生にとって都合がいい、ライフスタイルに悪影響を及ぼさない方と結婚をしたいと考えている方が多いようで、相手を選ぶ傾向、即ち結婚組数が減少していくという状況にあります。

内閣府が行った少子化対策に関する意識調査では、特になにも行動を起こしていないという若者がとても多く、男女ともに若者の3割強が異性との交際経験がないという結果に繋がっているのだと思います。ですから、結婚相談所は昭和の遺物のようになっていた節もあったのですが、実際は人の手を介したサポートを若者が求めていると言えると思います。

マッチングアプリはスマートフォンの普及とともに当たり前になってきていて、本気度に関わらずたくさんの方が経験しているのですが、引き合わせ後のサポートが全く無いことが結婚相談所との違いです。結婚相談所は一般の恋愛を経た結婚を凝縮して行うので、3~6か月を目途に結婚の意思決定まで持っていきます。創業したころは、結婚相談所は目立たないように看板を出すな、利用する方はモテない人の集まりだという風に言われていました。しかし今ではスマートフォンやSNS、マッチングアプリの普及によってサービス利用の敷居が下がり、ポジティブな意識変容が見られます。この10年15年で結婚相談所を含めたサービスを利用して結婚する方が2.3倍に増え、いかに一般的になったかということが見て取れると思います。色々なサービスがある中で非常に数が多いのはやはりマッチングアプリで、男性は月額5,000円ほど、女性は無料ということが多いです。対して結婚相談所は男女ともにほぼ同料金を頂戴しますので、女性にとってはハードルが高いと思われがちですが、マッチングアプリは結婚が目的ではない人もたくさんいますし、恋愛に対して苦手意識がある方やプロに相談しつつ婚活をしたいという方に利用していただいています。やはり若者がスマートフォンを当たり前に利用し、合理的に回り道なく良い方と出会いたいという趣向が高まっていますので、マッチングサービスの市場規模や利用ニーズは今後も拡大していくと考えています。

日本では少子化や人口減が大きな課題となっていますが、特に地方の人口減少や高齢化は非常に深刻で、出生率減少のワーストランキングの東北、その他北海道や新潟、高知、愛媛などを含め、4割以上のハイスピードで減少しています。東京都で昨年マッチングアプリをスタートしたのは有名で、小池都知事肝いりの政策ではあるのですが、多くの若者は相手を探しに東京に来ているわけではありません。ですので、東京でマッチングの機会を作るというよりは、地方で若者が結婚して子どもを産み育てることを実現したいところです。日本の大半は地方に属し、地方が第一次産品を作り、労働力を提供し、多くの役割を果たしています。そこが縮小してしまうことの問題が多々あると考えたほうがいいわけです。

仙台市は東北で一番大きな都市で、東北全体から年間1万3000名が転入しています。ところが仙台から首都圏に同じくらい流出しているという問題があり、ダムの役割を果たせていません。また大都市圏である名古屋も2019年以降転出超過エリアに転じていますので、たとえ大都市圏であっても人口が流出してしまっている現況を念頭に置いておくべきだと思います。

少子化の根本的な原因は、未婚化と晩婚化です。日本は子育て支援に力を入れていますが、結婚した女性が生涯産む子どもの数を示す完結出生児数はそこまで下がっておらず、実はそこまで子育て支援をしなくても、結婚したカップルは子どもを産んで育てようという意識はまだあるということが分かります。これまで合計特殊出生率によって都市部を中心に子育て支援を進めてきていましたが、そのような政策のミスリードも正していくべきだと思います。しかしながら年齢別の初婚数や出産数を見ると、40年前と比べて20代で結婚する数はかなり減っており、これが晩婚化の現状です。さらに20代の出生数は激減しており、こういった現状も見ていかなければいけないことだと思います。頑張っているのは40代の女性で、数ではもちろん20代には及びませんが、40年前の6倍近くという数字が出ています。アラフォーというのは厳しい言葉ではなくて、むしろ仕事も恋愛も出産もどんどん輝いていくという言葉なのではないかと思っています。

このように20代から40代にシフトしている現状はありますが、やはり結婚しやすいのは20代で、我々は若い人にたくさん結婚をしていただきたいと思っています。今後は若い人に対しての結婚支援を考えていくべきですが、料金がマッチしていないことを問題視しています。国も重点交付金もなかなか機能しておらず、官民連携で施策を高めていきたいところです。

自治体や地方銀行も婚活事業をはじめています。少子化は待った無しの瀬戸際で、婚姻制度が重視される日本では結婚支援は最重要事項ですので、今後は企業だけではなく、行政と連携してできることはなんでもやるということが我々のスタンスです。皆様にも関心を持っていただき、ご協力いただけると嬉しく思います。

ご清聴ありがとうございました。

卓話『世界を魅了する歌舞伎』2026年3月9日

松竹株式会社エグゼクティブフェロー 岡崎 哲也様

松竹株式会社エグゼクティブフェロー 岡崎 哲也様

歌舞伎座の創立は明治22年です。それ以前の江戸時代には、歌舞伎は主に日本橋や銀座周辺の「江戸三座」で上演されていました。天保の改革でこれらが浅草猿若町へ移転・集約された後、明治以降に現在の銀座の地へ戻り、歌舞伎座が誕生しました。

江戸で一番古い劇場は、西暦1624年に初代中村勘三郎が京橋に建てた中村座です。中村勘三郎は出雲阿国の一座にもいたと言われている傑物で、三枚目道化方、コミカルな役を得意としていました。亡くなった十八代目勘三郎さんが勘九郎時代から、なんとか同じことをやりたいということで、かつて江戸三座があった浅草に仮設で建てたのが平成中村座です。明治に入り、劇場が中央区に移ったのは大変な文明開化で、お客様にたくさんお越しいただいています。

明治12年、第18代アメリカ合衆国大統領グラント将軍が大統領退任後に世界周遊旅行で日本を訪れた際に、グラント将軍の芝居を行いました。作家は河竹黙阿弥、当時ナンバーワンスターの九代目市川團十郎が主演で、これが記録では外国の来賓が初めて歌舞伎に触れた時と言われています。

その後初代総理大臣である伊藤博文を筆頭に、明治政府による演劇改良会が発足しました。そして初代歌舞伎座の社長となる福地源一郎らが動き、九代目團十郎も引き込んで、明治20年に井上馨邸(いまの国際文化会館)で、天皇皇后両陛下が歌舞伎を生でご覧になるという史上初の天覧歌舞伎がありました。これで一挙に勢いがつき、歌舞伎は日本の 国劇になりました。そして明治22年11月22日に、現在の場所に第一代の歌舞伎座が誕生しました。

明治の終わり、ルネサンス様式・ヨーロッパのオペラ座式の場内、オーケストラピットもある帝国劇場ができたことは大きな転換点で、ここで初めて女優さんの養成所ができました。1629年に風紀の乱れから、女性は人前でパフォーマンスをしてはいけないという法律ができ、明治5年頃まで女性のエンターテイナーはいませんでした。この帝国劇場では歌舞伎も上演されていましたが、世界的なクラシック音楽やバレエなども行われていました。瀕死の白鳥を得意としていたアンナ・パブロワはロシアバレエ団のトップバレリーナで、大正11年に帝国劇場に出演した折には、当時の名優六代目菊五郎が市村座へ呼んで歌舞伎の衣裳を着せたり、自宅のお茶室でお茶を点てたりしています。また関東大震災の年の春には世界的なバイオリニスト、クライスラーが来日し、帝国劇場でリサイタルを開催しました。このように世界的に有名な方が帝国劇場を訪れた際に歌舞伎座に寄って芝居を観るようになり、海外での歌舞伎の地位を少しずつ確立していったのだと思います。

初めて海外で公演を行ったのは昭和3年のソビエト国際演劇音楽祭で、当時最高の名優、現代劇もできる天才であった二代目市川左団次がソビエトに行きました。歌舞伎の見得から映画のストップモーション、クローズアップの手法を編み出したと言われている映画監督エイゼンシュタインや、当時現代劇の神様と言われたスタニスラフスキーとも念願の対面を果たしました。

昭和7年にはチャップリンが来日し、六代目菊五郎、初代吉右衛門の仮名手本忠臣蔵を観ています。五・十五事件が起きた日にチャップリンは首相官邸へ行くはずたったそうですが延期となり、もし一緒にいたら撃たれていたと言われています。チャップリンは昭和11年にも新婚旅行で奥様と歌舞伎座を訪れました。同じ年にフランスのジャン・コクトーが六代目菊五郎の春興鏡獅子を観て、美女と野獣の演出のヒントを得たと言われています。当時イギリスの大使であったのちの吉田総理が、友好親善を目論み菊五郎を呼ぶための宣伝として24分間撮ったものが春興鏡獅子で、ロンドンの映画館で流してその3か月後に菊五郎を呼ぼうとしていたのですが、残念ながら戦争が激しくなって叶いませんでした。その後孫にあたる勘三郎が平成2年の勘九郎時代にロンドンで春興鏡獅子を踊り、六代目菊五郎の念願を果たしました。

昭和14年には二代目猿之助が、黒塚という長唄の舞踊を踊りました。これはロシアバレエの手が入っており、いわゆるヨーロッパのバレエの振り付けが歌舞伎に入った第一号です。

昭和20年5月の空襲で歌舞伎座が消失し、昭和24年にようやく地鎮祭ができ、26年のお正月に完成しました。ここから本当に戦後の外国の皆様とのお付き合いが始まります。昭和20年以降数年はなかなか行き来ができませんでしたが、昭和30年代に入って経済が良くなってきて、昭和34年にはヘルベルト・フォン・カラヤン夫妻がウィーンフィルと一緒に歌舞伎座に来られました。

その後アメリカへ初めて歌舞伎公演に行ったのが昭和35年です。ブロードウェイの小さな劇場で勧進帳などをやったところ、歌舞伎はオペラに通じるものがある、日本人のスピリットだということで大人気となり、この公演がロサンゼルス、サンフランシスコで大入りとなりました。のちにモナコ公国の公妃となるグレース・ケリーは歌右衛門さんの京鹿子娘道成寺に一目ぼれをし、その後2度国賓として日本に来た際に国立劇場へ足を運んでいます。モナコで茶道を習い、正座の稽古をして、楽屋では歌右衛門さんのお化粧をずっと正座で見ていたそうです。

昭和44年にアメリカで熊谷陣屋の源平合戦の絵巻という悲しいお話をやったところ、これがヒッピー全盛のアメリカでベトナム反戦の平和劇と話題になり、ニューヨークタイムズのアート欄のトップにイラスト入りで取り上げていただきました。このあたりから歌舞伎は外国のお客様に演劇として深く観ていただけるようになりました。それ以降も昭和54年の中国公演、昭和57年のアメリカ公演、昭和62年のソビエト公演など、様々な国で公演させていただく中で、たくさんのご縁にも恵まれました。作曲家レナード・バーンスタイン、ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツ、オリンピック金メダリストのカール・ルイス、そしてバレエの振付師モーリス・ベジャールとバレエダンサーのジョルジュ・ドン。モーリス・ベジャールが仮名手本忠臣蔵を題材として振り付けた「ザ・カブキ」は、和の魂を持つバレエとして、初演から40年経った今も東京バレエ団で世界中の観客を魅了し続けています。

このように世界と深く関わり合いながら、歌舞伎は平成17年に世界無形文化遺産に登録していただきました。

ご清聴ありがとうございました。



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