卓話
2025年2月
卓話『科学少年・少女を育む、世界唯一の天体望遠鏡博物館』2025年2月3日
一般社団法人 天体望遠鏡博物館 代表理事 村山 昇作様
京都大学の花山天文台は、わたしが中学1年生の時に初めて星を観た天文台です。この天文台の望遠鏡がわたしの一生を変えました。イギリス製の古い望遠鏡ですが、レンズの直径が30cmもあるとても大きな望遠鏡です。土星や木星、月を観て、感激しました。漆黒の闇の中に土星が浮かんでいる姿を見て、こんなに神秘的なものはないと思いました。その時、一生を賭けてでも同じくらい大きな望遠鏡を手に入れるぞと誓い、その気持ちが今までわたしが生きる支えになってきました。これがすべての始まりです。以来私は天文のことを考えているとストレスがなくなるというたいへん幸せな人生を送ってきました。
学生時代を京都で過ごし、その後日本銀行に就職し、35歳の時に花山天文台には及びませんが八ヶ岳に天文台を作りました。以来ずっと使っていて、まだ現役です。その後日本銀行を退職して移り住んだ四国で素晴らし仲間と出会い、四国でも天文台を作ろうということになりました。新しい望遠鏡は高いので古い大きな望遠鏡を探していたところ、公共の天文台がどんどん閉鎖になり大きな望遠鏡が廃棄になっていることが分かり、天体望遠鏡の保存活動を始めました。2007年に4名で活動を開始し、一般社団法人を作り、四国中を車で回って場所を探し、ついに2016年、香川県さぬき市に世界唯一の天体望遠鏡博物館を開館することができました。
わたしたちが目指すものは、望遠鏡の保存だけではなく、科学少年少女の育成も大きな目的の一つです。わたしは花山天文台で天文に出会ったことを、「科学との幸せな出会い」と呼んでいます。天文学は科学の入口として非常に入りやすく、例えばノーベル賞を受賞した本庶先生も最初は天文学でしたし、日本銀行の黒田前総裁も中学生の時は天文を趣味としていました。永く楽しむためにも子どもたちにはなるべく小さい時に科学と出会ってほしいのです。
わたしたちのコンセプトは、「星で望遠鏡を楽しむ」です。望遠鏡で星を楽しむのではなく、望遠鏡自体を楽しんでほしいという思いが込められています。閉校した小学校の跡地に作った博物館は校舎全体が博物館になっており、現在は120名ほどのボランティアによって活動が続いています。スタッフには、電子回路・一級建築士・測量・金属加工などのプロが揃っており、天体望遠鏡の引き取りや据え付け、修理はほとんど自分たちで行えます。運営費は会費と寄付で成り立っています。大変ありがたいことに、協賛企業や団体が14社おられ、またさぬき市や地元も方々の協力もあり、現在8年目で安定した運営をすることができています。このような形で100年200年続いていけばいいなと思います。
旧屋内プール棟に加え校舎内には展示室が全部で5つあり、それぞれの展示室に計500台以上の望遠鏡が展示してあります。ほとんどが捨てるのがもったいないという理由で公共機関や個人の方から寄贈されたものです。わたしたちが気を付けていることは、単に天体望遠鏡というモノを置く博物館にはしたくないということです。望遠鏡にまつわるヒューマンストーリーを収集することではじめて文化的な価値が出ると考えています。そのため、見学の際にはガイドが付きます。どういう人が作って、どういう歴史的背景があって、どういう経緯でここに来たのか。それが生きた博物館ではないかと思います。もちろんたくさんいるボランティア全員が同じ説明をできるわけではありませんが、わたしは標準的な説明は求めていません。知っていること、伝えたいことをお話しするというスタンスをとることで、次に来られた時にはまた違う話が聞けるというおもしろさもあるのだと思います。
天体観測室には電動の屋根があり、スイッチひとつで開閉する設備が整っています。さらに太陽専用の望遠鏡を保有しており、特殊なフィルターがついているため肉眼で直接観ることができます。太陽は現在11年周期の活動のピークで、地球の何倍もある黒点をたくさん見ることができるのはもちろんですが、太陽のまわりの大気が爆発して伸びていくプロミネンスという現象も見ることができます。
京都大学からきた口径60cm、重さ12トンという大きな望遠鏡は、建物全体がスライドして空が見えるような方式を採用しています。会員の一級建築士が考え出したもので、JAXAから頼まれた観測なども行っています。
月に1回開催する夜間の観望会は、毎回100名前後が参加する非常に人気のあるイベントです。来られた人数に合った望遠鏡を出して、待ち時間がなく観測することができます。子どもたちは本当に喜んで操作を覚えます。自分で星を望遠鏡の中に合わせることは結構大変ですが、達成感があります。
花山天文台の望遠鏡は現在、レンズが30cmから45cmに替えられて新しくなり、元の望遠鏡は使われていません。わたしの人生を変えた元の望遠鏡にもう一度会いたいと思い、京都の花山天文台に探しに行ったところ、観測室にある半地下でなんと筒にモップが立てられた状態で何十年ぶりかで発見することができました。これを預かって天体望遠鏡博物館に展示することができました。60年前にこれと同じくらい大きな望遠鏡が欲しいと思いましたが、なんとそれそのものが手に入ったのです。これをなんとか再生して見えるようにしたいと思っています。
その他にも、FM香川の名物アナウンサーが案内をするプラネタリウムや、望遠鏡の工作教室、望遠鏡の使い方教室、講演会など、様々な活動をしています。
現在高校では天文の授業がないこともあり、天文クラブがある高校が少ないため、科学少年少女の育成を目的に、中学校や高校、大学の天文クラブの創設・支援活動にも力を入れています。
館内を案内をしていると、時々すごく天文に詳しい小学生が来ます。わたしは企業経営者ですが、企業で本当に必要なのは、なんでもできる中途半端な人材ではなく、ひとつのことに秀でたとんがった人だと思っています。ですので、親御さんには是非その能力を伸ばしてあげてくださいとアドバイスをしています。
富山市の天文台からいただいた口径1mという大きな望遠鏡は、新たな観測小屋を建てないと使えません。これを修復して子どもたちに見せてあげたいという目標を叶えるために、わたしはこれからも走り回りたいと思っています。
ご清聴ありがとうございました。
卓話『岩倉使節団にみる教育の重要性』2025年2月17日
TMI 総合法律事務所 パートナー弁護士/一橋大学大学院法学研究科(ビジネスロー)専攻教授 岩倉 正和様
岩倉具視は当初尊王「攘夷」を掲げてった人間で、日本の国体を非常に大事にしていたので、岩倉欧米使節団としてアメリカに行った当初は丁髷を切っていませんでした。もちろん会ったことはないですし、親、祖父、曾祖父から話を聞いても本当の岩倉具視の人となりを知ることはできませんが、頑固な反面非常に柔軟性に富んでいたことが明治維新・明治政府の発展に繋がったのだと思います。サンフランシスコ沖に到着し当時の大陸横断鉄道でワシントンに向かった岩倉具視は、途中で決意をして丁髷を切りました。アメリカの繁栄、文化、産業の発展に大変感動し、丁髷をしている時代ではないと決意して丁髷を切ったのでしょう。
明治時代になるまで鎖国をしていたため欧米列強にとっては未知の国であった日本は、アメリカでもヨーロッパでも各国で大歓迎を受けました。岩倉使節団のひとつのミッションは、ペリーによる開国以降日本政府が締結させられていた不平等条約を改正することにありました。改正することをも餌に欧米列強は明治政府による起債など様々な誘いをかけてきましたが、1件も約束をしませんでした。初めて飲むワインやウイスキーは非常においしかったことでしょう。しかしスケジュールも手持ちカードも限られた中で不平等条約を徐々に改正していくには、非常に大変な努力をしたのだろうと思います。大変に固い決意をもって日本のために頑張ったということではないかと思います。
岩倉具視はもともと岩倉家の生まれではありません。旗本であった堀河家で生まれ、岩倉家に養子に出された人間です。様々な策略を図って天皇・皇族を江戸幕府の時代から日本の中心に持っていこうと動き、坂本龍馬、西郷隆盛や大久保利通をはじめとする長州の面々と密談を重ねて明治維新を果たしたわけですが、すべてが大成功だったわけではありませんでした。
欧米使節団は1868年、明治政府が始まったばかりの年の9月に出発しました。混乱の中で出たのは、開明派だった岩倉ら一派が海外の文化や法制度などを学んで持ち帰ることが主たる目的だったと思いますが、対立してしまった西郷一派との内乱を避ける意味合いもあったのだと思います。岩倉具視は特命全権大使として大久保利通や木戸孝允、伊藤博文、その他明治政府初期の要職を勤めた人間たちと共に欧米使節団としてアメリカに渡りました。
欧米諸国の政治、法律、教育、文化、軍事制度委を視察し、明治政府が進める近代化にすることを大義名分とした使節団は、帰国後、アメリカやヨーロッパの政治、法律、軍事制度を日本の明治政府の中に導入しました。岩倉具視は1883年に亡くなりましたので、大日本帝国憲法と最初の国会に出席することは叶いませんでしたが、当時の岩倉の意を汲んだ後輩たちに託し、明治政府が法律を定め、明治の日本での軍事制度を固めた時の礎を築いたということは、まさにこの欧米使節団から始まったと言われています。
また欧米の教育制度や学校教育の重要性を非常に強く考え、近代的な教育システムの導入を果たしました。国際関係の構築の観点では不平等条約を改定することはできませんでしたが、国際関係を構築するという礎にはなったと思います。文化的交流の強化は言うまでもなく、欧米の文化や思想を学んだことで日本の中で文化や思想を育んだことに繋がっていると思います。国民の意識改革にはどれだけ刺激になったかはわかりませんが、各国から大歓迎を受けたことは当時日本各地で報道され、欧米列強に押されているという雰囲気を払拭する一歩になったのではないかと思います。留学制度の確立という点で見ると、欧米での学びを日本に持ち帰った指導者たちにより新しい教育手法やカリキュラムの開発に寄与し、留学制度を徐々に確立していったことで、今多くの若者が海外で学びを得ることができることの基礎になったと言われています。
津田梅子は5歳で欧米使節団に参加し、その後もアメリカに残り教育を受けました。一緒に使節団に参加した4人のお子さんのうち、いちばん成功を結果として出されたのが津田梅子です。津田塾大学の前身である女子英学塾を創立され、明治時代において女性に対する教育を発案した先人のひとりだと思います。欧米使節団に参加したことによって、日本の女子教育の基礎が開かれたということは間違いないでしょう。
岩倉欧米使節団に見る教育の重要性は、津田梅子を連れて行っただけでも非常に価値があると思うのですが、国際理解と先進国の知識を得るという点で、当時の先進国の技術や文化、政治制度を直接体験することを目的として、日本を国際的な水準に引き上げる重要性を感じました。そして近代教育制度の導入は、欧米の教育システムや制度などを視察し、日本における近代的な教育制度の確立を目指して先人たちが努力をしました。人材育成においては、欧米の教育システムを模範とすることで、高度な専門知識や技術を持つ人材を育成するように仕向けました。非常に混乱していたこの時代において、国民全体の意識レベルを向上させ、国際社会の中で日本の立場を高めるために教育システムは非常に重要視されました。文化的自信の構築としてみると、欧米の進んだ文化や技術を謙虚に学び、新しい視点を持つ機会として、すでに存在している日本の誇るべき文化、あるいはその基礎をさらに発展させる礎になったのではないかと考えています。
明治維新の直後、大混乱の時代に、岩倉欧米使節団は驚くべき考えを持ってそれを実行に移しました。岩倉欧米使節団が現代に与えるサゼッションは、その意識を現在の日本でも持ち続けることだと思います。良いところを若い人に繋げていくことで、もっと日本という国が良くなっていくのではないでしょうか。
ご清聴ありがとうございました。