卓話
2025年4月
卓話『デジタル化に伴う音楽コンテンツ・IPビジネスの変遷』2025年4月21日
ビジネスプロデューサー合同会社 代表社員 山川 隆義様
わたしは2020年の6月まで、ドリームインキュベータという会社の社長をやっておりました。その前はボストンコンサルティングにおり、最初のキャリアは半導体の計測装置の設計やユニックスマシンのOSの開発といったエンジニアでした。MBAも無いですし海外留学の経験もありません。しかし仕事が変わる度に「インプットすること」をやっており、様々なデータが頭に入っていることで、結果的にその後の仕事でとても役に立ったと思っています。現在は色々な会社の社外役員と、HEROES ENTERTAINMENTでKPOPの権利を取り、価値を最大化するビジネスをやっています。2023年6月にかんき出版から「瞬考」という本を出させていただきました。思った以上に反響があった本で、本日はその中でも触れている音楽ビジネスについてお話させていただきます。
音楽ビジネスにおいて、音源はこの15年ぐらいで56%減、半分以下になっています。一方でライブは世界レベルで178%と2倍近くになりました。日本だけで見るとライブビジネスは120%増、音源は20%減で、海外に比べると減りは少なく、CDも売れています。現在CDプレイヤーを持っている人はほとんどいないと思いますが、なぜ売れるのでしょうか。その理由は、CDがグッズになってしまったからです。
音楽ビジネス自身は元々のレコード盤からライブビジネスへと移っています。音楽ビジネスは過去2回ほど大きな節目を迎えました。1回目はレコードがCDになった時、2回目はCDがデジタルになった時です。その節目ごとに大きく変化が起こっている業界です。
1960年から1970年代、レコード産業がまだ黎明期で立ち上がりはじめの頃にエンターテインメントビジネスの原型ができました。SONY、東芝EMI、キングレコードなど、多くのレコードレーベルができましたが、現在では昔の名前を残しているレコード会社はほぼなくなりました。当時は渡辺プロダクションが非常に強く、そこから優秀なプロデューサーが独立し、ホリプロやアミューズを作りました。現在の日本ではプロデューサーが独立するということはあまりありませんが、韓国ではどんどん独立しています。サイバーエージェントなどの広告ビジネスも大きくなったので、市場が成長するとプロデューサーが独立するという傾向が現在起こっています。
印税の仕組みは、歌い手が1%、作詞が3%、作曲が3%であることから、80年代以降はシンガーソングライター全盛の時代になります。作曲や作詞を全部自分でやることで、最大7%の印税が入ってくるというわけです。しかし裏ではレコード会社が原盤権として30%をもっていき、実は未だにこの構造が続いています。昔はテレビ、ラジオ、雑誌、レコード店と連動してプロモーションを行うマスマーケティングの時代で、みんながハッピーでした。またドラマの主題歌に使用するためにテレビ局が音楽出版会社を持っていました。そういったモデルで成功していたのが80年代90年代、ミリオンセラーが続出してシンガーソングライターも潤った良い時代でした。
基本はCDを売って儲けるというビジネスがメインであった80年代90年代ですが、SONYが最初にグッズ販売会社やマネジメント会社、ファンクラブ、ライブ会場などのビジネスを始め、他の会社も同じようにやり始めました。しかし音源がデジタル化してCDを聞かなくなり、SONY以外のレコードレーベルは子会社をSONYに売りました。SONYはどちらかというと救済のために買いましたが、今となってはドル箱になっています。周辺ビジネスの売却と統廃合が2000年以降も続き、それ以降もデジタル化が促進されてCDが売れないので、今まで刺身のつまであったライフビジネスが主体となっていきます。
ライブでは応募と来場者すべてのデータが取れるため、マスマーケティングの必要がなくなりつつあります。アーティストからすると、直接ファンにCDを売ったほうがいいわけです。そうするとレコードレーベルの存在意義が薄くなってしまい、現在ではチケットやグッズなどの周辺事業はファンを中心としたダイレクト販売に変わってきています。
なぜ推し活が日本で人気なのでしょうか。実はファンクラブでお金を取っているのは日本ぐらいで、それは大昔の相撲や歌舞伎から来ているのではないかと思います。このようなことがデジタル化されていくと、柔道でも空手でも華道でも茶道でも、家元があるところに関してはファンや会員の管理ができるため、非常に効率的にダイレクトサービスができるようになり、ビジネス的には今までの仕組みが全く変わってくると思います。
こういった音楽ビジネスは、直接ファンと繋がっていると色々な企画ができます。アーティストとファンを繋ぐというのは音楽以外でもまったく同じような話で、政党や宗教団体、神社、仏閣も全部同じです。企業もYouTuberも同じで、コミュニティーが経済圏となるため、ファンクラブ的要素があらゆるジャンルに拡大するのではないかと思います。
昨今のKPOPや海外のアーティストの音楽作成は完全な分業制です。プロデューサーが曲を出しますと世界に投げると、世界中から曲が集まり、それを繋ぎ合わせて曲を作っています。日本の昔ながらの作詞作曲編曲というパターンではありません。一方で日本はまた違うやり方で、漫画やアニメーションを武器にしたプレイヤーが出てきています。YOASOBIは小説とアニメーションと楽曲と歌手ということで、小説のネタを歌詞にしています。アメリカのロサンゼルスでライブをやっても人が集まり、これはアニメーションという下駄をはいていることが大きいと思います。日本は50年ぐらい前からアニメをほぼタダ同然で世界に配ってきました。自由に使われた結果、ヨーロッパに凄まじく広がり、その土台が50年もあるので売れているのだと思います。ここ数年はKPOPが盛んでしたが、アメリカ人に言わせると、これからはJPOPの時代だということです。
こういったビジネスはこれからどんどん広がっていくと思います。それと同時に、音楽ビジネスだけではなく、動員するファンのホテルや旅行などのビジネスも広げていけるのではないでしょうか。
ご清聴ありがとうございました。
卓話『日本文化と共生の思想』2025年4月14日
株式会社團紀彦建築設計事務所 代表 團 紀彦様
共生が日本発の考え方であるということはそれほど知られていないことかと思います。
わたしは2001年に台湾で大地震があり、その復旧を記念して日月潭風景管理処を造りました。普通建築は地面の上に造られるものですが、瓦礫を片付けて地盤を再生しながら、建物自体が地球の一部でもある大地との共生を考えました。また寧波スマートシティセンター鯤鵬館や京都市西京極総合運動公園スイミングプール複合施設などを手掛け、特に京都では残土を捨てずに土と一緒に建築を一体化させ、大量の残土を廃棄する際に想定された環境破壊を食い止めることを大きな目標としました。
都市というのは設計図を書いてそれに向かっていくというスタティックなものではなく、植物や自然の生態系と同じようにどんどん成長していくものであることと、様々な要素がたくさん存在していて、その多元性の中で考えていく必要があります。パリのように整然としている町も素晴らしいと思いつつ、やはり日本の町には日本の考え方というものが、より良い街を目指していく上では必要ではないかと思います。建築は一度造ったら動かないものですが、しかし都市の変化を見ればどんどん動いているものだとも思います。
1980年代に建築家である黒川紀章さんが「共生の思想」という本を出されました。共生思想の原型、日本的自然観の探求という中国の学者が書いた論文の中では、黒川紀章さんのことや、非常に日本的な自然観と共生は切っても切り離せないほぼ同一ものであるということが書かれていますし、あるいは宗教観、神仏習合など、様々な面で共生は日本の文化と切っても切り離すことはできないものです。現在、共生とは自分たちが最初に言い出したのだという国が多く現れてきていますが、共生という考え方はまぎれもなく日本の黒川さんが提唱された思想です。ところが日本の文化は、なかなか内側から日本人論や日本のことを客観的に書くことを得意としていません。自分たちの血となり肉となったものは、客観的に論じられないからなのです。
縄文時代と弥生時代を例にしてみると、2つの時代は遺跡が重複して見つかっており、共存していた時期があったのだということが分かってきました。寒さを避けるために家の真ん中で火を焚く必要があった縄文と、湿気から逃れるために床を上げざるを得なかった弥生。風土の中で異なる住居形式が生まれたのは、優先するものが違った結果なのだと思います。日本の典型的な民家は、土間に入る玄関、土間から高床式の母屋に入る玄関と、二つの玄関がありました。それは世界の民家と比較しても非常に珍しく、土間は縄文、母屋が弥生と考えることができるのではないでしょうか。弥生が入ってきて縄文を駆逐したという話もありますが、わたしは、共存、共栄、共生の道を選んだ結果なのだと考えています。また時間の共生という点で見てみると、伊勢神宮では定められた20年という周期で社殿を新しく造り替えて、神様を新しい社殿にお遷りいただく神事である式年遷宮が行われています。20年に一度というのは当時の日本人の平均年齢を考慮すればおそらく意味があって、これはやはり世界では例を見ない時間との共生という思想で造られた建築であると思います。
共生において大切なことは、様々なパッチワークが並び、国同士や異なる文化が隣同士でいつも喧嘩をしているものを、1+1=3にすることです。そのためには境界線がとても大切な役割を果たしています。都市の境界線や国際的な境界線はいつも争いの火種になりやすいですが、人間の文化としてみると、そこが一番大切なところではないかと思ったりもします。世界には千の境界線があり、共生の考え方と合わせてこれから日本の街がもっと良くなっていくということだけではなく、その考え方が世界にも貢献していける日がくればいいと思っています。また共生の思想というのはグローバリズムのひとつだと勘違いされることが多いですが、実は真逆の考え方なのではないかとわたしは思っています。新しい考え方だという意味ではグローバルかもしれませんが、現実には色々な境界線があり、その上でどのように豊かな町を作っていくのかが大切なのだと思います。例えば竹林と松林が隣にあると、竹林は深く根を張り、松林を枯らしてしまったりします。しかし小さな小川を流すことで竹は小川を超えることができず、共生が可能になります。このように両方とも美しく保つための造園の知恵や建築の知恵は、単に造園のことだけではなく世界が今必要としている叡智につながるものだと思います。今私たちが大切にすべきことは隣と隣を1+1=3にしようという共生の思想ではないかと思います。
最後に気候変動に関する私とAIとの対話をご紹介します。地球温暖化問題については地球環境資源を無駄に使わないという方向は踏襲すべきものだと思いますが、原理主義的にグローバリズムを適用することに対しては違和感を感じたからです。
世界の気候はひとつ、世界を統治するのはひとつ、世界のルールはひとつという考え方がわたしは好きではなく、世界統一と最も馴染まない文化を持ってきたのは実は日本の文化ではなかったかと思います。万世一系の連綿として続いていたという事実と、縄文や弥生が数百年という時間をかけて大切に共生していったであろうということ。つまり日本の文化は一系で繋がっているかのように見えていて、同時に非常に多元的な文化を持った民族なのだと言えると思います。その両方が共生しているといってもいいかもしれません。千の場所には千の気候風土があって、千の文化があります。しかしそこに衝突もあり、分離しなければならない時もあり、ある時には融合する。そのような関係が共生の思想なのではないでしょうか。日本の文化と思想は日本のためだけにあるのではなく、世界に貢献すべきものだと強く感じます。
ご清聴ありがとうございました。
卓話『富士山より日本を変える』2025年4月3日
アルピニスト 野口 健様
僕は山を登って、日本中の山、または海外の山がある意味の現場ですね。で、この現場に行くというのが僕にとってはインパクト大きくて。今はインターネットで情報になるデータは簡単に集まりますよね。それが正しいかどうか別として色々な活動して、事前に調べて情報を頭の中に入れます。これ調べたから詳しいぞと思うんですよね。ただ、これは僕の感覚ですけれども、データはフラットで、データを頭に入れた上で現場に行きますと、現場っていうのはもっとこう、生々しく、匂いっていうのがありますし、そこの空間のオーラっていうのもありますし。現場に身を置きますと、頭の中にあった平らな知識っていうのが、これ膨らんできますよね。
個人でやってる活動多いので、あれもこれもできないんですけれども。現場にいると、何か一つ、自分にできることがないかと思うんで、気づくとその何か一つを探してるんですね。それが現場にいると、あれができるかなとか思い、それを始めると、次の活動にこう、と広がっていきます。
簡単に申し上げますと。どうして山登り屋が今いろんな活動してるかというと。現場に行って見る・知る。知るってことは同時に背負うっていうことがあって、背負うと、そこから何か知らぬ活動が始まる。最近本当に活動が広がりすぎまして、もう自分が何屋かなと思って色々な活動をしております。特に例えば今年の1年で申し上げますと能登での地震。
地震が起きたとき山梨から岡山に向かっていて、具体的にどことはわかんなかったんですけど、輪島市というのが出て、輪島市の上空のヘリからの空撮で燃えて、大規模の火事が起きてると。3.11の時よりもさらに寒いとなった時に頭の中で「寝袋っ」ていうのがパッとすぐ浮かんで、3日後に者会見をして能登に寝袋とテントを届けようとしました。
なぜ寝袋かと申しますと、あの寝袋ってダウンで小さくなり軽い。-15度、20度までは対応できる。自分の体温を閉じ込めることができるっていうことで、布団よりも暖かいし、かさばらないし、大量に持っていけるっていうことで寝袋だったんですね。これ僕の山屋の経験で。
被災者は遭難者と同じで、僕の経験で言うと、ヒマラヤを登って登頂して、下山中に悪天候になって、ルートがわからない時、あまり動かない方が良い。で朝が来るのを待つ。でもすごく長く感じるんですね。特に夜中の2時3時4時くらいがグーンと温度が下がる、太陽が出れば暖かい。太陽が出れば助かると思って待つ。でも、気持ちが切れかけるんですね。で、気持ちが切れる時っていうのは、特に遭難中は一番ピンチなんです。
ヒマラヤに行くと、錯乱状態は定期的に起きるんですね。寒さとか恐怖に、長い間人間がさらされますと精神が崩壊して。映画の八甲山の様に。あの映画の内容は実話を再現した映画だそうです。山岳世界の最も大きな遭難事故で200数十人亡くなったそうです。
山で遭難した時に、まずは体を温める。基本ですこれがないと何をやってもダメです。体を温めて、まず寝る。寝られる環境をどう作るか、僕らはその経験の中で、まずは寝袋ということから始まったんです。冬の災害の場合は避難所が寒いですよね。七尾市の避難所を運営している方に温度を聞いたら12月の最低温度が2.2度。相当寒いですよ。冷蔵庫の中より寒いですからね。1月10日に入ったんですが、道路はもうズタズタでしたね。
車で運転中に巨大地震が来ましたという時に、車どこを止めます?
どこに止めるかなんですが、多くの方は、道路の左に止めると思うんです。能登の方もそれをやられたんです。左側が崖の場合土砂崩れが起きる。電柱が倒れる。ブロック塀倒れる。家も崩壊。車はかなり潰されてるんですね。左側が海の場合、道路が陥没して車が下に落ちる。なので、道路のど真ん中に止めて、様子を見て、ダメだと思ったら鍵を残し。非難するということで。これは正解がわかりませんけど。
避難所は本当に寒いんですよ。寝袋を待ってるってメールとか連絡いっぱい来るんですね。被災地からくるメールはもう本当悲痛で。寒い寒い寒い、早く寝袋持ってきても死んじゃうよっていう、メールが1月下旬でしたね。こっちも集めながら届けてやってますからどうしても時間かかっちゃう。でも2月、3月に寝袋待ってる方がいらっしゃる。だんだん表情がなくなっていくし、家が壊れるということも大変で。人間の精神が壊れてるんですよね。ある意味、家が壊れる以上に精神が壊れるっていうのは非常に本当に深刻ですから本当に。日本は災害、毎年繰り返していながら、この避難所生活のクオリティを高めていくかっていうのは、わからん。
瓦礫の中にですね、ずっと住んで、ふっと振り返った時にライトアップされてるいろんな家が、一瞬ですけど、瓦礫に見えたの。ドキッとしますね。僕の中では強烈な荒波だなって思いながら。災害に備えるというと、まあ楽しい話じゃないし。あまりリアリティをもって想像できないというとこもあるんだろうと思うんですけど、ただ、この国に生きている以上は、明日は我が身と思って、色々な被災地入ってます。この国なら、災害の規模によりますけど、3日ないし5日、自力で生き延びれば多分なんとかなりますよ。
最初、3日ないし5日をどう生き延びるかなんですね。テントとか寝袋とかを持っていても、道具って所詮道具ですかね。持っているだけではダメで。自然体験って、重要で、僕は子供の頃ボーイスカウトが流行って、ボーイスカウトが自然体験なんですよ。ぼくは子供たちに環境学校をやっていてカヤックを海に浮かべ、ひっくり返ると自動的に元に戻らないので、自分で浮かない限り死ぬんです。で、ひっくり返って、脱出しろとっていう訓練から始まります。半数の子は頑張って浮上したんですが、残りの半分弱の4人がひっくり返ったまま、動かないんですよ。動かないで、暴れてくれないんですよ。なんで出てこないの?と思って水中メガネをつけて海の中を見たら、ひっくり返ったまま子供が逆になってるじゃないですか。海の中にひっくり返ったまま、目を瞑ってきちっとしてるんですね。固まってるんですよ。しまった、と思って引っこ抜いて、もうだめかなと思いましたけどね。思考停止。環境学校やってると定期的にそれが起きるんです。大学生が対象でも起きるんです。そういうレベルのことがです。これはなんでだろう?っていうのは、ずっと僕はいろんな子供たちと接してきて。スタッフいおも話し合ってきて。一つ見えたのは、自然体験があるか無いか、かな。自然体験がある子は、生命のピンチが来た時に、とっさに体が動くんです。脳みそじゃなくてね、体が動くんですよ。パパッと。自然体験ってちょっとしたプチピンチですね。プチピンチっていうのを体に覚えさせるんですね。プチピンチは多分普通にあるんです。例えば雨が降って体が濡れて、寒くなったとか、濡れて面倒とか。プチピンチを体験することによって、おそらく人間っていうのは生命力っていうのが養われていくと僕は思ったんですから。
能登の災害と熊本の災害と比べますと災害関連死が3.3倍なんです。被災地は、被災自治体体が避難所の運営をしていますので、そもそも無理がある。ですから、避難所に入れない、入らない、あの環境なら入りたくないとか。報道によりますと、能登災害では盗難が多かった。直後の窃盗団。これは外国人の窃盗団が入って逮捕されましたが、外国人に限らず、作業服着た業者と思われる格好でトラックでやって来るので、地元の人も気か付かないで、家の中の物持っていたりとかっていう窃盗があって。能登は輪島塗の作家さん多いんで、窃盗対策のために高価な作品を守るために家にいる。夜は、避難所に行く。で、昼帰ると窃盗にあって作品が無くなってる。なので避難所に入れない。入らない方が多くて。能登半島でこの状態なら、これが南海トラフとか直下型とかが来た時には、この国はおそらく災害で滅びるなと思いながら見ていました。災害の時には、車中っていうのが非常に多かったんですね。1週間超えるとエコノミー症候群のリスクがバーンと跳ね上がりますんで、何ができるかとうとう非常に葛藤っていうのがあって、テント村を作るっていう事を考えました。僕らが管理するテント村はどういうテント村を作るかを考えていくと。エベレストが出てきました。エベレストのベースキャンプが5300m付近。第2キャンプ、第3キャンプとテントを作って山に登っていく。ベースキャンプから第2キャンプを何往復をするんですね。食材など色々なものを、一気に持てないので少しずつ上げしていき、往復しながら低酸素に体を順応させていくんです。上は空気薄く寒い。ベースキャンプから上がった途端、いつ死んでもおかしくない。いつ死んでもおかしくない環境には、やっぱりかなりの緊張にさらされるわけです。これが1週間いると登山慣れてる登山家でも情緒不安定になるんですね。で僕らどうするかと言うと、ベースキャンプに戻り安全な場所で死の恐怖から解放される。で、そこでの過ごし方ですね。ベースキャンプで肉体と心をどう休めるかっていうのが、あの数か月間の厳しい環境の中で生存するためには大事だから。ベースキャンプで香りを楽しむ、テントの色をオレンジや黄色などの暖かい色にする、グリーンとか青はちょっと寒いんですよね。あと食事ですね。真空パックの鰻を大量に置いてきまして、ベースキャンプをどう豪華にするかということ、凝りだしてお金を集めて、例えば1000万かかるベースキャンプ予算を1300万にしよう300万プラス集める。で、ベースキャンプを豪華なする。熊本の避難所でも、そうすると多くの人が心身ともにホッとできるんじゃないかなということで、オープニングビデオでご覧になったテント村は、ベースキャンプを再現したんです。2ヶ月間、約600人の方々と、共同生活をしました。避難所テント村では、プライバシーは各家族単位とか、カップルとか、ということで、結構大型テントで、共同生活ですが、みんなそれぞれのテントにプライバシーがあったので、非常に環境が良くて、良いテント村ができたと、色々な行政の方から相談がありまして。テントですから一夜で作れるわけです。ですから、これから日本の災害ではテントというのは一つの選択として、国交省含めて検討してくださってるっているんで、良かったなと思います。最初はプロジェクトに対する様々な意見があったんです。新しいことをする時に批判や意見が多いですよね。もし熱中症になる人がしたらどうするんだ?お前、責任取れるのか?600人の命を預かる資格あるのか?って言われて、怖いですよ。雨の降る日があると、取材の車が来て、そういう時に限ってテレビのカメラが、だーっと沢山来て、テントに水が入ってくるとかって撮影するんです。天気のいい時や気持ち良くみんなが遊んでる時は全然撮影してくれない。通常、避難所ってカメラ入れますのでテント村は野外だからカメラが入れちゃうんで、取材陣が何かが起きるの待ってる。絵的に何かあったらそれは報道としては面白いと思って待ち構えているんです。だから、怖いんですよ、600人集まっている中で一人死んだらどうしようと思って。もう本当、大変なこと。命預かるのは大変なことなんで、どうしようと思ってましたけど。メディアずっとそれを見ていて、何かことが起きるのはある意味期待している中で。で、徹底的に安全管理を徹底的にやるってなったんです。ですから、あの緊張感があったおかげで、何一つ事故が起きなかったのかなと思いながら、感謝しています。
富士山の話しますと、富士山の清掃を25年前、2000年から始めるんですけど、僕が富士山が大好きすぎて富士山の掃除をしてると思ってる方結構多いんですけど。
富士山大好きなんですけど。世界的に見れば4000mの低い山ですよ。なのに世界中から人が来る。でも、日本人の心の山となるんじゃないですか。なぜあれだけ世界の人の心を捉えるかというと、左右対称の形なんですね。だから登るんじゃなくて、眺めるものなんだなと、ここ最近気付きましたね。散々登ってますが。
富士山登った方にお聞きしますが、山頂でご来光拝んだ方、どれくらいいらっしゃいます?今日帰り近くに神社があったら清めてもらった方がいいですね。山頂でご来光を拝むと、かなりの確率で罰が当たるようですよ。(笑)僕もね、散々やってたんで、おかげでいろんな罰が当たりましたね。(笑)。
富士山は世界遺産に登録されたかをちゃんと理解している人は意外と少ないですよ。僕はたまたまこれに関わってますから知ってますけど、富士山は最初、世界自然遺産を目指していたんです。でも世界自然遺産って理系なんです。富士山にしかない生態系とかないとダメです。探したんですが、富士山にしかない生態系が無い。だから無理って諦めて、じゃ、もう一つの世界遺産は世界文化遺産。世界文化遺産は文系なんですね。芸術とか宗教とか、で、富士山は霊峰なんです。神社がある、北斎さんの絵にも出てくるから、文化。絵、本にも出てくるんです。だから、世界文化遺産に通ったんですよ。ただまあ、いろんな条件がつきました。ゴミの問題。安全面の問題。人が多すぎる。などで、これを解決しなさいと。だから仮免許状態なんですけど。
その文化遺産の富士山は、霊峰ということが素晴らしいことだったんです。それが江戸時代の日本人ですよ。江戸時代なら富士山が遠くから見える。他県から、江戸から、もっと遠くからも見える。そして遠くから歩いて、山梨まで行って、そこから登って静岡におりる。1ヶ月間や半年もかけて。そういう時代。富士山へのリスペクトがあって、山に登る。あの時代トイレがないんですね。だから山川で用を足した。あの時代、日本人は霊峰富士は神様ですから、山登ってる時おしっこするのはダメなんですね、だから白い紙を持ってくるんですよ。おしっこしたくなる。皆さん紙を出して山に置いてそこにおしっこして、その紙を持ち帰ったのが江戸時代までの日本人です。それが当時の日本人なんです。富士山に対して、リスペクトがあった。それがすごく世界の人に評価されて。だから江戸時代までの日本人の接し方が評価されて、世界遺産に選ばれたんです。
そこで、なぜ山頂からご来光を拝むと罰が当たるのかっていうと、山頂で太陽が昇ってくるのを拝むのは、上から見下ろすからですって。一応、太陽は神様として捉えてますからね。それを上から見下ろして拝むのは罰当たりで、一番いいのは八合目と九合目の間とかその辺りなんです。そこからご来光を見るとちょっと目線から上にバランスするんですって。で、僕はいろんなことがあったから振り返ってみると、それは多分、山頂で拝みすぎたから、その活動が、バチが当たったんだと思いますね。だから僕は富士山でゴミ拾ってるのはね、できるだけバッチが当たらないようにしてるんですよ。昔、外国人に言われて驚いたのは、世界で最も汚いマウント富士山。まあ。確かに、人が多くてすごい。山頂に自販機がザーッと並んでいる。観光客でゴミが出ますね。樹海への不法投棄ですね。注射器やタイヤが山積みです。これが当時の富士山ですよ。でも、指摘されるまで僕は冬にしか富士山に行ったことなかったんで、冬は雪が降ますので見えなかったですね。外国人に言われるまで分からなかった。本当に世界で最も汚いのかって思って、学生の頃、97年、エベレストから帰って、夏の富士山に行った時に、初めてそのゴミだらけの富士山さんを見て、愕然としました。
噂には聞いてましたが、夏の富士山には白い川があると。当時ですけど、山のトイレが貯まると全部ザーッと山に流すんですね。で、トイレから流れるものって、おしっこと便と紙の3点セット。イメージで言うとミルクチョコレートシェーク。これがだーっと流れるわけでが、富士山は火山灰ですから地面には穴がいっぱいあるんで、スポンジ状態で、紙が残るんです。それが白い川の犯人です。その白い川を見ながらその時飲んでいたペットボトルのラベルを見たら富士山の天然水。(笑)
当時、富士山クラブっていう団体ができて、そこだけじゃなくて綺麗にすると、いろいろ案内してもらったら、ふもとの樹海には不法投棄の注射器とか匂いも凄くて、薬品の匂い。これがその当時、遠くから見た富士山のA面だな。美しいんですよ、でも富士山に入り込んで見た時に富士山のB面が、あのトイレやこの樹海の不法投棄の注射。富士山のA面とB面、表と裏。表裏一体だなと。日本の富士山は日本のシンボルであると思った時に、A面B面両面抱えているという意味においても富士山は日本シンボルなんだなと思ったんです。ですから富士山だけであるわけがないと思ったんですね。これ、全国どこでも起きてるぞと思った。ですから、僕はその時に思ったことなんですけど、日本中のことはできない。一個の体で、寿命も、自分の命の使い方ですかね。そうすると一点に、ある程度焦点を当てようと。人生1回ですから、自分の与えられた時間をどう使うかっていうと、じゃあ富士山を徹底的にやると。富士山は日本のシンボルだから、富士山が綺麗になれば注目もされるだろうと。注目されれば全国どこでも同じことが起きているだから、きたなかったところが綺麗になる。この活動は全国に広がっていけば、富士山から日本が変わることになるのかな。なればそれはちょっと意味があるなと思いました。富士山を徹底的にやって、富士山が綺麗になれば、これが全国に広がって、日本が変わればいいかな?と思いながら25年経ちました。二十何年前は清掃キャンペーンやっても、本当に人が集まらなかった。最初の年は10回やって、100人とか200人なんですよ。で、拾うよりも捨てる人が多いって。ダメなんですよ。全然切れない。気持ちが悪いです。追い詰められたんです。結構、地元から厳しい声がありましたね。でも人が来てくれない。4年やったら数百人。600人。あれ増えたの?じゃああと5年、千人、2千人、1万人、日本中から来てくるようになるんですよ。みんなで清掃しに来たら、どんどん僕らが拾ってるゴミがなくなるの。ものすごいんですよ。なんでないの?と思って。ある夏、富士山に行ったらあちこちで一般の方々が休憩所などでゴミを拾ってるんですよ。年間30数万人いるじゃないですか、一人一個拾ったら、マイナス30数万個ですよね。まあ、もちろん全員が拾うことはないんだけど、何個も拾う人がいる。あちこちでそうしていると、拾わなくても、捨てづらい雰囲気出てきますよね。ですから本当に、この清掃を続けて10年目ぐらいに一般の方々に広がりました。五号目からはゴミがほぼないです。樹海もあの積んだゴミはほぼ終わりだと、ちょっと見たら地面の下からちょっと出てたんで、掘ってみたら、いっぱい出てきました。地面下ですからあと5年やれば富士山は終わるかなと思って。
環境問題ってわかんない専門問題、所詮山ですからね。ただ、環境の環っていう字が、あの呼び方変えたら「わ」ですよね。それは僕ら現場の人間は環境の「わ」をどう捉えるかというと、これは人と人のとの輪ですから、僕は一人でやってますが、行政の方と組んだり、日本中の色々な方を巻き込んで、みんなで大きな活動になったんで富士山があるんだなと。今25年ですが、30年やったら富士山もどうなったいくのか、環境に対する感度を上げ、僕の役割を問いながら頑張って場を広げたい。どうもありがとうございます。